東海道一里塚の跡
徳川幕府は全国の交通網の整備を図り、伝馬制を定めました。東海道の五十三宿にも36町ごとに道の両側に相対して一里塚が設けられました。「江戸より十八里」の一里塚が二宮にも築かれ、その跡が、茶屋の川勾神社入口の国道1号線沿いにあります。この一里塚から大磯寄りの梅沢は「梅沢の立場」と呼ばれ、小田原と大磯の間の宿として賑わいを見せました。
徳川幕府は全国の交通網の整備を図り、伝馬制を定めました。東海道の五十三宿にも36町ごとに道の両側に相対して一里塚が設けられました。「江戸より十八里」の一里塚が二宮にも築かれ、その跡が、茶屋の川勾神社入口の国道1号線沿いにあります。この一里塚から大磯寄りの梅沢は「梅沢の立場」と呼ばれ、小田原と大磯の間の宿として賑わいを見せました。